ぜひ読んで欲しい、満州引揚の実相を語る人の日記(1)
 DeNA の SNS・しゅみーと倶楽部の仲間、終戦当時13歳、現在75歳の方の日記です。僕も知らない、こまごまとした満州からの引き上げを描いています。

自分と同世代の人にも、もっと若い人にもぜひ知って欲しい引き上げの実相です。
同時に、領有権問題で熱くなっておられる方が多い昨今、その方面の方にもぜひ知ってほしい当時の中国の人々のことが語られています。



   「旧満洲の敗戦当時の想い出」1

太平戦争当時、私達家族は旧満州哈爾浜(ハルビン)市に住んでいました。

写真は満州を中心とした地図です。

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父は最後の召集(根こそぎ動員)で8月13日敗戦の2日前に哈爾浜より南の撫順(ぶじゅん)に行きました。

敗戦の時、私は小学校3年生の夏休みでした。

敗戦の日の朝、生徒は学校近くの公園に集合と連絡が入り、次兄と近所の男の友人と何事だろうと話しながら公園に行きました。

写真は連合国最高司令官・ダグラスマッカーサーです。
マッカーサーは、厚木から直接東京には行かず、横浜のホテル「ニューグランド」に12日間滞在した。

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その時兄たちは沖縄戦のとき、小学生(当時は国民学校生と呼んでいました)が手留弾で戦った話を聞き、多分手留弾の演習をするのだろうと話をしていました。

次兄はその時小学5年生で、休み前は、手旗信号、無線信号、ほかに農場に行って作業ばかりしていました。
長兄は中学1年生。毎日、脚絆(当時はゲートルと言っていました)を巻いて、学校から提供された木銃を持って学校に通っていました。

1番上の姉は高等女学校(今の中学校に当ります)の3年生で、夏休みに入りすぐに開拓民の農家の手伝いに行っていました。
まだ女学生で農家の家の子供の子守と、食事の支度、風呂沸かしの手伝い程度の作業だったと聞いています。
8月9日ソ連軍が満州に進撃した為に、女学生だけはすぐさま、帰宅することになりました。

行き先は哈爾浜から汽車に乗り、荷馬車に乗り1日以上もかかる垃方(ラホー)と言う開拓民部落でした。

写真は満州鉄道の蒸気機関車です。

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姉はいち早く帰宅しましたが、男子の中学生は一日遅く出発した為に、雨の為に川が氾濫したりして、命懸けの帰宅となったとあとで聞きました。

開拓民の成人男子はその年の六月頃から召集されて、男手はなく婦女子だけの農作業をして、男女中学生までも駆り出されて応援に行っていました。

お国の為と言われ、日本が負け戦など知らされずに、学業よりも作業が大事だと先生達から言われていたのでしょう。

姉は自宅に帰ってから、街の陸軍病院に奉仕作業と言われて行っていました。
兵隊の指導の元、急病人、負傷者の手当てから担架で移送の訓練、また、木銃で射撃の練習などをさせられていたと聞きました。

お国の為だと、多くの人達が開拓団として満州に行きました。

10月1日のTBSの「残留婦人強行帰国」を見て戦争の悲劇を今に伝えてくれました。

今夜の夕食の時に当時の食事について家内と話をしました。
お米がなく、食べる物もない時に母の苦労を今の人達にも伝えたいと思い立ち今日から思い出しながら、つたない日記を書かせてもらいます。

特に、中国・韓国と島の領有権問題の対立をしています。
政治に関してはまるで素人です。唯あの時の中国人が私達敗戦国民に対して、戦争を起こした政府が悪い、在満国民は被害者だと多くの中国人が私達をかばってくれたこと、また逆に虐待を受けた人達の事を、書き足して見たいと思います。


中国人、韓国人と再び友好信頼、関係ができることを期待しています。
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by to_sisyun | 2012-11-08 18:58

原発はかたくなに反対します。後世の人の命が最優先だから
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