ぜひ読んで欲しい、満州引揚の実相を語る人の日記(2)
 DeNA の SNS・しゅみーと倶楽部の仲間、終戦当時13歳、現在75歳の方の日記です。僕も知らない、こまごまとした満州からの引き上げを描いています。

自分と同世代の人にも、もっと若い人にもぜひ知って欲しい引き上げの実相です。
同時に、領有権問題で熱くなっておられる方が多い昨今、その方面の方にもぜひ知ってほしい当時の中国の人々のことが語られています。

  「旧満洲の敗戦当時の想い出」2

昭和20年の正月を思い出す。

満洲では正月は大変に賑やかです。

日本人同士の大人たちは元旦から知り合いの家を訪れ年賀の挨拶をしながら、酒席の宴を開くのです。
ただし男の世界でしょう。主婦は朝から、お客にご馳走を作りをして振る舞わなければなりません。
大変な苦労をしていたと思いますが、正月の目でたいときなので愚痴も言わずに気持ちよく客を迎えていたのでしょう。

満州では日本人同士、遠い親戚より赤の他人の方が親しくなりました。

人の出入りは正月7日頃まで朝から夜まで続いていました。
昭和20年の正月も賑やかに人の出入りがありました。玄関は自由に出這入りできるように解放していました。


その為に私が買ってもらったアヒルの靴が盗まれたのです。
アヒルの靴とは中国人が冬に履く、白い厚い生地の靴の事です。
自分は余り好きな靴ではありませんでした。
逆に盗まれて良かったとも思いました。

その靴を知り合いの方が捜しに行こうと誘ってくれて、ショートル市場(泥棒市場)に行きました。盗まれた片方の靴だけを売っていました。

此の市場の奥は迷路となっていて奥深くはいるとアヘン窟と言う場所があったと聞きました。

此の芥子(ケシ)栽培には日本政府が関わり、関東軍資金作りをしたと聞きました。

岸信介が戦前、商工大臣の時に、アヘン売買に関わっていた事も聞きました。

何故、この様な戦犯が戦後の首相になれたのか、未だに疑問を持っています。

どうしても話が飛んでしまい申し訳有りません。話を元に戻しましょう。

以前から食糧が配給制度になっていました。

米も少なくなって、ジャガイモを混ぜた白いご飯でした。このご飯をどうしても食べられなく、自分の飯だけ、近所の家に茶碗を持って貰いにいた覚えがあります。

零下20度と云う寒さの中、配給のものを買うのに、早くから店前に並んで待つのです。

その時は私の耳が凍傷にかかり母が急いで手で揉んでくれたりしました。

その時の配給は、ハルビンで有名なカルパスでした。このカルパスはロシア人が作っていたものだと思います。今のハムソーセ―ジのようなものですが、非常に美味しかったことを覚えています。

日本から年末にミカンを送ってくれていました。そのミカンは冷凍ミカンになっていて、食べる時は、ストーブの上に乗せて解凍して食べました、非常に美味しく食べていました。

話が長くなるので続きを1日置きに書いて行きたいと思っています。

写真は郵便局のようです。

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by to_sisyun | 2012-11-08 22:35

原発はかたくなに反対します。後世の人の命が最優先だから
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